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長野は縄文だけじゃない! 箕輪町のロマン 「松島王墓古墳」を訪ねて
松島王墓古墳
南アルプスのふもとの森に、突如現れる“前方後円墳”
長野県といえば、言わずと知れた「縄文の聖地」。“信州ブランドの元祖”などとも呼ばれる黒曜石の大産地・星糞峠や、“縄文のビーナス”こと国宝「土偶」が出土した棚畑遺跡など、長野発の縄文のレジェンドを語れば枚挙にいとまがありません。
けれど! 実は長野県、古墳時代にも強いんです。「長野県史考古資料編遺跡地名表」に記載されている、県内の古墳時代の遺跡数は884箇所。その一つである前方後円墳が私の地元である箕輪町にあると知り、これは訪ねてみなくては!と今回訪ねてみることにしました。
箕輪町の中心にある箕輪町役場に車を置き、歩き始めること15分。住宅や田んぼのある道を進むと、大きな建物と駐車場が見えてきます。地図を見ると、その奥のこんもりとした森が目的地の古墳「松島王墓」のようです。
最先端の研究やものづくりがされている近代的な建築物と隣り合わせに、ひっそりと時をとめて存在し続けている松島王墓とのギャップ。なんともロマンを感じ、胸がときめきました。地図を見ると、「追分」という地名のあたりです。諏訪と松本への分かれ道にあたる土地であり、当時からすでに人の往来がさかんな場所だったのではないか、と想像しました。
左に少しみえるのが近代的な建築物。真ん中のこんもりした林が松島王墓古墳。
道路から森の中に入っていくと、ひっそりと静かにたたずむ「松島王墓」が現れました。ぐるっと柵に囲われていて、すぐ近くにはいけませんが、前方後円墳の形は遠目からでも確認することができます。その形の上には、今は木々が並んで立っていて、その木々の間から差し込む光がきれいでした。森の外側に目を向けると、木立の間から、南アルプスの山々が見えます。きっと、昔から眺めのよい場所だったのだろうな…と太古の時代へと想いを馳せました。
松島王墓古墳の上には立派な木々たち。
松島王墓古墳とは…
箕輪町の文献や資料で、古墳が作られた年代や出土品などを少し調べてから、松島王墓古墳を訪ねましたが、もっと詳しくお話を聞くために、箕輪町郷土博物館へ向かいました。学芸員の井澤はずきさん(以下、井澤さん)がとても丁寧に教えてくださいました。
箕輪町郷土博物館
箕輪町には、古墳がいくつかあります。町内の古墳のほとんどが 古墳時代後期のものと思われ、松島王墓古墳、長岡古墳群などがあります。そのうち、松島王墓古墳だけが前方後円形をした大古墳です。
古墳の全体模型。
松島王墓古墳は、後円部を東に向けた全長約58mの前方後円墳。 6世紀中頃~後半に築造されたと推定されます。前方部は幅32m、高さ7.7m、後円部は直径30m、高さ7m。中央のくびれ部の北側には造り出しがあり(かつては南側にもあった)、古墳の周囲には溝(堀)をめぐらせ、多くの埴輪が並べられていました。埋葬部分としては、後円部の南側に入口を持った横穴式の石室があったと推定されます。多くの人々がこの地に動員されてできた古墳だと想像でき、古墳の主が大きな力を持っていたことがわかります。

王墓の出土品のほとんどは埴輪です。大半の埴輪は、円筒埴輪と言われる筒の形をしたものです。ほかは、人物、動物、武具などの形をした形象埴輪で、人物埴輪、馬形埴輪、ゆき形埴輪(矢を入れる物)と呼ばれるものです。
これらの埴輪は、古墳の上部から周囲にかけて、何段かに分けて規則正しく並べられていたと推測され、全体の数量は非常に多いものと思われます。埴輪のほかに須恵器などの器類が発見されています。(これらの多くは、墓前で行われたお祭りに使用されたものと思われます。)

 
手前の白い器類が須恵器。奥が埴輪。
この古墳出現の背景には、台地を利用してつくられた牧場からの多くの馬の生産があったと推定されます。馬の生産ができたことは、当時大きな力を得ることと結びついていたと考えられています。そうしてこの土地を統率した首長が、松島王墓古墳の主と考えられています。
博物館には、松島王墓古墳の模型や出土品の一部が展示されていています。井澤さんのお話を聞きながら確認できたので、全体像が掴め、イメージが膨らみました。
謎多き松島王墓古墳
松島王墓古墳は、未発掘調査の古墳で、まだまだ謎の多い古墳なのです。
ロマンを感じる雰囲気
まず、古墳の主(被葬者)は、不明です。古い書物「信濃奇勝録」や「伊那志略」などによると、敏達天皇の子、頼勝親王であるとされています。しかし、頼勝親王の存在を確認できる史料はなく、実在の人物ではないと考えられています。
須恵器は、東海地域で多く作られていた器類であり、また、埴輪は、関東の埴輪の製造技法と類似していることが近年明らかになったことで、畿内政権の支配下で築造された説だけでなく、関東の一族が関係している可能性もあることがわかりました。
(※畿内…山城(京都府)、大和(奈良県)、河内(大阪府)、和泉(大阪府)、摂津(大阪府と兵庫県の一部))
畿内と東北地方を結ぶ東山道(とうざんどう)のもとになった道は、古墳時代には存在していて、このあたりを通っていたと考えられています。
また、最近の研究で、前方後円墳が築かれる場所は、海上もしくは陸上交通の要衝であることがわかってきています。そうだとすると、「追分」という、松本と諏訪への分かれ道にあたる土地にあることは、当時すでに交通の要衝として機能していたことも考えられます。
こうだったのかもしれない、ああだったのかもしれない、と想像したり、考察したり、歴史のわからないことについて考えるだけでもワクワクしてきます。
守っていくことが使命
博物館の井澤さんは、松島王墓古墳を小学生に説明するときには、「詳しくはよくわからない。大人になったら謎を解明してください。」と話をされるそうです。未発掘調査の古墳であるということに、素人の私は疑問を持ち、質問しました。「なぜ発掘調査をされないのですか?」と。答えは、「開けた瞬間から風化がはじまってしまうから」ということでした。けれど これから、発掘調査が進化して、発掘して開けなくても、デジタルで中を見られるときが来るかもしれません。
「これまで、1,000年以上のあいだ、地元の人たちに守られてきた場所。きれいな状態で残し、壊さないように伝えていくこと、これからも守っていくことが使命です」
そんなお話を聞くと、想像力というか、妄想力が強めの私は、ワクワクしてくるのでした。“古墳時代のままパックされているかも”という井澤さんの言葉にすっかり心の温度もあがりました。
学芸員の井澤さん
知れば知るほど面白い箕輪町
今回、少しマニアックかもしれない古墳のことを取り上げましたが、箕輪町には、ほかにも縄文~近世までの遺跡が170余以上あるそうです。先ほども少し出ていた「東山道」のほか、「中道遺跡(なかみちいせき)」という古墳時代(9世紀後期)から平安時代前期を主体とした集落の跡地、ほか、歴史的に重要なポイントである武田信玄との戦の拠点にもなった「福与城」、信州と三河を結ぶ「三州街道」、など、まだまだあります。
歴史的なことに限らず、紅葉シーズンに賑わうもみじ湖にもみじが植えられた想いなど土地のお話、博物館の前に展示されいるアメリカ産の「電気機関車ED19-1号機」(世界におそらくここにしか存在しない、とのこと)など。
井澤さんは、「箕輪町は知れば知るほど面白い。町の人は町に自信を持ってほしい。」とおっしゃっていました。
電気機関車ED19-1号
箕輪町の人からは、“箕輪町には何もない”という言葉をよく耳にします。外から来た人間からすると、町の中には、気になる所がたくさんあり、わくわくが生まれそうな要素がたくさんある町だと感じます。今回、松島王墓古墳を調べたことで、その気持ちがますます大きくなりました。箕輪町は、派手さはありませんが、ロマンがたくさんつまっている町です。ぜひ、美しい風景を楽しむとともに、歴史や土地の話、ロマンを感じに訪ねてみてください。

松島王墓古墳
箕輪町松島
https://www.inadanikankou.jp/spot/page/id=496

箕輪町郷土博物館
上伊那郡箕輪町大字中箕輪10286-3
TEL:0265-79-4860
HP:https://www.town.minowa.lg.jp/bunka/shogai0009.html
松島王墓古墳から見える南アルプスの山並み。
*この記事は、令和2年12月に公開をし、令和5年8月に一部修正をしたものです。
みんなの体験記ライター
投稿者太田清美
年代40代
趣味自然の中にいること、町歩き、畑仕事、季節の手仕事
自己紹介2020年4月、名古屋から箕輪町へ。自然の近くで、季節を感じながら、山々を眺めたり、野菜づくりをしたり、自分の暮らしのカタチを追いかけています。伊那谷の風景、営み、人、文化、一つ一つを味わっているところです。体感したことをいろんな人たちと共有していけると嬉しいです。