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守り伝えられて300年人形浄瑠璃「古田人形芝居」
箕輪町古田人形保存会
 みなさんは「人形浄瑠璃」をご覧になったことはありますか?「教科書で習ったなぁ…」「伝統芸能ということはわかるけど、観たことはないなあ」という方が多数ではないでしょうか。箕輪町には、“古田人形芝居”という名前で、大切に守り伝えられてきた人形浄瑠璃があります。

 町を縦断する中央自動車道の標識(カントリーサイン)にも使われている、古田人形芝居が上古田に伝わって約300年。地域の人々で結成された「古田人形芝居保存会」は、この歴史を伝え、技術を継承することを目指して活動されています。

芝居への冷めない情熱、次世代につなぐその想いについてお聞きすべく、古田人形芝居保存会、会長代行の柴登巳夫さん(78)を訪ねました。
約30座あった伊那谷の人形浄瑠璃。いまでは「古田人形芝居」を合わせ、わずか四ケ所に。

 人形浄瑠璃とは、浄瑠璃にあわせて人形を操る演劇で、日本の伝統芸能の一つです。今日では「文楽」と呼ばれ、古典芸能として国の保護を受けています。1984年には、「国立文楽劇場」が人形浄瑠璃専門劇場として大阪に開設。2008年には大阪で始まった歴史ある人形浄瑠璃文楽として、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界無形遺産に登録されています。

 人形芝居の構成は、三業一体の技。太夫・三味線・人形操りです。

1.太夫・・・語る人であり、登場する人形のセリフ・心理描写などすべて一人で語り、その語りに合わせ、人形が操られる。

2.三味線・・・単なる伴奏ではなく、それぞれの義太夫の心を弾き、すがたを弾くのが重要とされる。

3.人形操り・・・三人で一体の人形を操る。主(おも)遣いは、かしらと右手。左遣いは、左手。足遣いは、両足。

このように三業が一体となったときこそ、人形が生きた人のように動き、見る者に感動を、そして、芝居を作る者に喜びを与えてくれるといいます。

伊那谷に人形芝居が伝えられてから約300年。伊那谷で、最盛期には30ヶ所ほどあった人形座は、現在も芝居を続けるのは、わずか4ヶ所となってしまいました。その一つが、箕輪町の西部上古田地区を中心に伝承されてきた「古田人形芝居」なのです。

この地域には信濃(現在の長野県塩尻市)から三州(現在の愛知県岡崎市)までをつなぐ「三州街道」が通り、中馬という馬を使った輸送業を行う人などの往来で賑わいました。そうした人たちが、関西で人形浄瑠璃(人形芝居)を見つけ、伊那谷に持ち帰ったのがこの地での人形浄瑠璃文化のはじまりです。

関西で歌舞伎が盛んになると、人形芝居の演者たちは仕事を失い、伊那谷に行き来する者、移り住む者が現れた、と記録されています。

なかでもここ上古田地区には淡路から人形遣いの名手・市村久蔵が移り住み、人形操りの指導をしながら興行し、人形芝居が非常に盛んな時代がありました。地区には、舞台も作られ、江戸時代末まで続けられていましたが、明治に入り、国の政策上、芸能が弾圧されるなど打撃を受け、多くの人形座が消えてしまいます。そうした時代を乗り越え、古田人形芝居は守り継がれ、戦後、昭和35年に古田人形芝居保存会を組織し、現在に至ります。
舞台は、箕輪古田神社から正全寺へ移築され、寺の本堂として使われている。
300年の伝統を背負う、一人の太夫
「古田人形芝居の記念すべき300年祭を盛り上げたい」

そう意欲的に話すのは、古田人形芝居保存会、会長代行の柴登巳夫さん(78)(以下、柴さん)。柴さんは、古田人形芝居の上演できる外題すべてを語るたった一人の太夫であり、箕輪町無形文化財保持者でもあります。この日は、黒子の衣装で、人形や台本を準備して迎えてくださいました。
床本を説明する柴さん
昭和56年から義太夫の稽古をはじめた柴さん。有名な人形芝居役者だった祖父の影響もあり、「若いときから、いつかはやってみようと思っていた」のだとか。

とはいえ、はじめたきっかけは、芝居の演者の高齢化により、太夫がいなくなってしまうという危機的状況を目の当たりにしたため。「誰かがやらねば」と立ち上がりましたが、本場、大阪の人形浄瑠璃文楽の先生と1対1の稽古は、年に数回しか受けることができず、「普通の人より3倍の時間がかかった」と話します。

「一演目に、2年~3年。40年でやっと6つ」と、人形芝居の台本ともいえる床本という本から自分で写した手書きの台本を見せながら、振り返る柴さん。その台本には、過去に詩吟をやっていた経験をいかした印などが、たくさん書き込まれていました。
よく書き込まれた手書きの台本
「課題は人。お金はなんとかなる。」
現在、古田人形芝居保存会は、高校生~85歳までの20名で構成されていて中には、親子2世代で参加している家族が3組。人形座の中では、若い世代への継承がうまくいっているほうだといいます。それができたのは、地区の小学校と町内の中学校にある部活動の存在です。昭和54年から箕輪中学校、平成4年から箕輪西小学校で週一回の稽古が続けられてきました。中学校での経験者のうち、保存会に参加しているのは11名にもなるそうです。

柴さんが箕輪町郷土博物館に務めていた時代にはじまった、中学の部活動。博物館は中学校に隣接しているので、4人の指導者の送り迎えや人形の準備などは柴さんがこなしました。15年計画で、5つの芝居を復活させる目標をたて、町にも全面的な協力をしてもらうことで、人形や道具の修理や新調が可能に。現在は、7つの芝居を復活させることができています。

「教育の場に持ち込む」という、柴さんたちの”計画”が、今に繋がっています。
修繕しながら使われてきた人形たち
コロナ禍前には、年に平均10回の公演をこなしていた保存会。平成10年には、オーストリアで公演したことも。海外の人たちにも喜ばれたようで、「『記念にみんなで行こう』と、全員自腹で行ったのだけれど、とてもいい経験になったよ」と、楽しそうに語られていた柴さんの様子が印象に残っています。

“若い世代への継承がうまくいっている”とはいえ、中学校の経験者のうち、大学や就職で地元を離れる人も多く、地元に残り人形芝居を続けていても、仕事や子育ての関係で参加できない時期があるなど、若い世代の人たちが続けていくことは容易ではありません。

実際の稽古の現場では、「負担に感じるな、楽しくいこう、と言いながらも、もっとがんばれ!と思ってしまう」と、楽しく続けてもらいたい気持ちと、芸を極めてもらいたい気持ちとが交錯するのだそう。

「人形芝居の価値を感じてもらうこと、どう関心を持ってもらうか。伝統芸能に限らず、文化・芸術に共通している課題は人。お金の問題はなんとかなる。」と柴さん。

この“人”というのは、継承する人はもちろんのこと、芝居をみる人、応援する人、家族、古田人形芝居のことを知らない人など、まわりの人も含むのだと感じ、自分も含まれるのだ、そうハッとさせられたのでした。
人形のかしらの部分
古田人形芝居を体感する日を楽しみに
準備してくださっていた人形を持たせてもらうと、ずっしり重く、重さはなんと20㎏。これをなめらかに操ることの難しさはいかばかりでしょう。歴史や技術の継承の重みを感じました。

最後に柴さんは

「続けることで面白さがわかる。高みをみて、良い芝居をしようという意欲を持つ。人形、技、想い、良い状態で次世代へつなげたい。」と話してくださいました。

ここまでの情熱をもって取り組む柴さんに、憧れさえ感じました。きっと、この熱も古田人形芝居の継承とともに、未来へと繋がっていくのでしょう。

コロナ禍で公演が限られていることもあり、残念ながら私はまだ、実際に古田人形芝居を鑑賞したことがありません。鑑賞する人に面白さを伝えるとしたらどこかを質問してみると、「観てくれる人におまかせ」という答えが返ってきました。いよいよ、これは鑑賞したいという想いが大きくなりました。次の公演を楽しみに待つことにしましょう。

古田人形芝居 定期公演
開催時期:毎年12月第1土曜日
場所:箕輪町文化センター
*但し、新型コロナウイルス等の影響により変更・中止もありうる。

「古田人形芝居」に関するお問い合わせは
箕輪町郷土博物館まで
TEL:0265-79-4860
人形の持ち方を教えてくれる柴さん
*この記事は、令和4年12月に公開をし、令和5年8月に変更がないことを確認したものです。
みんなの体験記ライター
投稿者太田清美
年代40代
趣味自然の中にいること、町歩き、畑仕事、季節の手仕事
自己紹介2020年4月、名古屋から箕輪町へ。自然の近くで、季節を感じながら、山々を眺めたり、野菜づくりをしたり、自分の暮らしのカタチを追いかけています。伊那谷の風景、営み、人、文化、一つ一つを味わっているところです。体感したことをいろんな人たちと共有していけると嬉しいです。