みんなの体験記
Blog
  • トップ
  • みんなの体験記
  • 自然風土と、作り手の個性がもたらす芸術作品。 金色にかがやく幻の「龍渓硯(りゅうけいすずり)」とは?
自然風土と、作り手の個性がもたらす芸術作品。 金色にかがやく幻の「龍渓硯(りゅうけいすずり)」とは?
龍渓硯
伊那谷の最北端、辰野町。

この場所はほたるが東日本でもっとも群生する「ほたるの町」として知られていますが、龍を意味する「辰」という字が含まれている通り、龍にまつわる様々な伝説もあります。

江戸時代の文献には、辰野町一帯は「天ノ竜ノ海」と呼ばれる龍が住み着いていた湖だったという記述があったり、それと呼応するように辰野の中には、「龍ヶ崎」といった地名があったり、その昔、龍が暴れて川が氾濫し、それを大蛇が守ったという伝説が残されていたり……。

真偽はさておき、伝説上の龍がもしもいたと思うと、ちょっとワクワクしませんか?

そして辰野町にはもう一つ、全国的に有名な龍にまつわる名産品があります。それが、「龍渓硯(りゅうけいすずり)」です。

龍渓硯は辰野町の横川川(旧川島村)や小横川あたりでしか採取できない貴重な石を用いてつくられた硯。長野県の指定伝統工芸品に指定され、書道家からも人気の高い高級硯として知られています。その質の高さから、江戸時代には「秘硯」として市場には出回らず、大名など限られた人たちの間でのみ使われていた時代もあったのだとか。

そんな硯づくりの技を今に受け継ぎ、その歴史や伝統を伝え続けている書家・龍渓硯作家が伊那にいます。

その方の名は、泉石心さん。

泉さんへの取材から見えてきたのは、道具としてだけでなく芸術品としても美しい、龍渓硯ならではの魅力でした。
美しい金色の模様が入った「龍の硯」
ふつう、硯といえば真っ黒で長方形の、どちらかといえば地味なものをイメージされるのではないでしょうか。小学校の書道の時間で触れて以来、硯を目にする機会もなかった筆者はまさに、そんな印象を抱いていました。

しかし、実際に泉さんから龍渓硯を見せてもらうと、その石は想像以上に色鮮やかな金色に輝いていました。

どうしてこのような色なのでしょう?

「きれいな金色ですよね。この金色は石の中に含まれている鉄分によるものなんです。龍渓硯はおそらく、日本で一番色鮮やかな硯です」
金色の濃淡がどことなく龍の模様にも見えてきます
龍渓硯の石質は学名で「黒雲母粘板岩」と呼ばれ、なんと石齢は2億年以上。恐竜が生息していた時代の地表が、長いながい年月をかけて石になったものなのです。ロマンを感じられずにはいられません。

龍渓石の特徴は、石質の緻密さ。これにより、粒子の細かい墨を磨(す)ることができます。粒子の細かい墨ほど滑らかで書きやすいため、この石を使った硯は江戸時代から大変重宝されてきたのだそうです。

江戸時代、いまの辰野町川島地区や小横川一帯をおさめていた高遠藩は、財政難を立て直すために、当時「高遠硯」や「鍋倉硯」と呼ばれていた龍渓硯の生産を奨励したともいわれています。それだけ価値の高いものだったことが伺えます。
龍渓硯がとれる辰野町川島地区。龍渓石のように黄金色に耀く美しい里山風景が今も色濃く残ります
明治の衰退。そして昭和の復興。伝統のバトンリレー
このように、ブランド硯として知られていた龍渓石の硯でしたが、明治から大正になるころには徐々に勢いを失っていきます。

原因は西洋文化の流入です。鎖国から開国になり、和食は洋食に、和服は洋服に、日本家屋は洋館へというように、古くから続いてきた日本文化が急速に西洋化。日本文化は遅れたものとして見られるようになっていきます。

硯においても同様で、万年筆や鉛筆といった毛筆に代わる文房具が広がり始めたことで、硯を使う習慣も薄まっていきました。そのため、明治の時代には数十名の龍渓硯職人がいましたが、大正になると徐々にその数は減っていったのです。
しかし、昭和になるとふたたび日本文化の価値が見直されるようになり、龍渓硯づくりも再び盛んに。じつはこの昭和の時代に、長野県知事によって付けられたのが現在の呼称である「龍渓硯」なのです。

「昭和前期に硯づくりが盛んだった山梨から多くの職人が良い石を求めて今の川島に移り住みました。70人くらいの職人がいたようです。」

と、泉さん。その移住者の中に、泉さんの師匠にあたる故・翠川希石さんもいました。

「僕は翠川さんからずっと龍渓硯づくりを教わってきたんです。最初のきっかけは、僕が諏訪二葉 高校で教えていた生徒が翠川さんの息子さんで。書道はもともとやっていたんですが、硯をつくっていると聞いて工房にお邪魔するようになりました」

翠川さんから教わる中で、次第に龍渓硯づくりにのめり込んでいく泉さん。良質な龍渓石の採集の仕方、削り方、美しく見せるデザインなど多くを学んでいきました。

しかし、2014年に翠川さんは71歳で他界。

その後も翠川さんの妻・ゆり子さんに指導を仰ぎ、龍渓硯の伝統を引き継いでいきました。

現在は、高校や大学で書道を教える傍ら、龍渓硯の作品制作、硯づくりの体験ワークショップ、展覧会などを行い、龍渓硯の伝統をつないでいくことに努めています。

「書家はたくさんいますが、龍渓硯の作家は川島地区の深澤秀石さんと僕の2人しかもう残っていないんです。だから、僕が生きている間は龍渓という名が残り続けるようになんとか頑張りたいです」
先生として働きながら、龍渓硯の伝統を伝え続ける泉石心さん。硯だけでなく書道や水墨画も得意なマルチアーティスト
ただの道具じゃない。実用性と芸術性を兼ね備えた龍渓硯
今回、泉さんに取材させていただいたのも、市民向けの龍渓硯制作ワークショップの場でのことでした。

男女8名ほどの参加者とともに、硯の彫り方、装飾デザインまで実際に体験できる全8回の講座です。
お互いの作品を発表し合うプレゼンタイムも大盛り上がり
作品は十人十色で本当に多様なデザイン。そして、みなさん初めてとは思えないクオリティの数々で、見ていて楽しくなるものばかりです。

講座を通じて、どんな作品が生まれたのでしょう? 参加者の方にいくつか作品を紹介いただきました。

〈雪だるま〉
「三角の形を生かして雪だるまを掘ってみました。左右対称にするのが難しくて、160時間くらいかかりましたよ。講座が終わってからうちに帰っても磨いた力作です」
〈果物〉
「蓋にもこだわりたかったので、果物を立体的に彫りました。彫るときに力を入れすぎると割れてしまうので、力の加減が難しかったですね」
<雨つゆと蛙〉
「蛙(かえる)を彫ってみましたが、足を彫り過ぎてしまいました。葉っぱの上に雨つゆをのせているのもこだわりです。ずーっと彫っているとお地蔵さんを掘り上げているような気になってくるくらい、無心になれて良いですね」
こんな硯もアリなんだ!とこれまでの硯のイメージを覆されるような自由な作品に感動。

作品を見ていると、思わず「自分も」と創作意欲がかき立てられます。

「これじゃなきゃダメということはないと思っているんです。それぞれに考えてもらって自由に彫ってもらう。そうすることで一人ひとりの個性が自然と表れてきます」

「龍渓硯の面白いところは、実用性と鑑賞性の両方を備えていることですね。道具であり、作品でもある。だから、龍渓硯の場合はあえて真っ黒に塗らないで、金色の模様も生かすんです」

道具としての硯ではなく、作品としての硯。

龍渓硯の魅力をそう教えてくれた泉さん。私たちの日常には、便利な道具は無数に溢れているけれど、美しさに心打たれるものや愛着を感じられるものはそう多くありません。

時間をかけて、龍渓硯を彫り出すことで、普段何気なく触れているモノとの向き合い方も改めて考えさせられるかもしれません。

龍渓硯の制作ワークショプは不定期に開催されています。もしも運よく出会えたなら、ぜひ参加してみてはいかがでしょうか。
*龍渓硯ワークショップは不定期開催

*この記事は、令和4年5月に公開をし、令和5年8月に変更がないことを確認したものです。
みんなの体験記ライター
投稿者北埜航太
年代20代
趣味カフェ、古民家、歴史ある町めぐり、ジブリ
自己紹介東京の文京区から辰野町に移り住みました。無垢の暮らしが残る、自然体の伊那谷が好きです。そんな伊那谷の雰囲気そのままに飾らない言葉で伝えられるように頑張ります。