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    2.水をつなぎ、地域の稲作を大改革「西天竜幹線水路 円筒分水群」
伊那谷、水をめぐる物語
2.水をつなぎ、地域の稲作を大改革「西天竜幹線水路 円筒分水群」
おはなし 西天竜土地改良区・ 理事長 平井眞一さん
「悲願の水」をもたらした円筒分水工。 今では人気のサイクリングスポットに
天竜川を挟んだ西側、中央アルプスの山懐に広がる「西天竜」エリア。現在、伊那谷有数の田園地帯となっているこの場所には、春の訪れとともに天竜川の水が注ぎ込まれ、あたり一面に美しい水鏡の景色が広がります。

いまでは季節の風物詩とも言える光景ですが、このように広大な田んぼは昭和初期まで見られなかったもの。

「むしろこのあたりは長年水不足に悩まされていて、産業と言えば養蚕のための桑畑などが中心。それでも水が足りず、水争いの耐えない地域だったと伝わっています」

 そう話すのは、西天竜土地改良区理事長の、平井眞一さん。平井さんは箕輪町で生まれ育ち、生活者としても地域の移ろいを見つめてきたお一人です。
西天竜土地改良区理事長 平井眞一さん。家業は代々続く農家であり、ご自身も円筒分水工の恩恵を受ける一人
「この土地に暮らす人々は、『せめて自分たちの食べる米は自分たちで育てたい』との思いを江戸時代から強く胸に抱いていたものの、資金不足などで計画はたびたび頓挫したそうです。これを変える大きな契機となったのが、大正時代の米騒動。全国的な飢饉を契機に、土地改良を進める法律『開墾助成法』が施行されたことで、伊那谷でも長年の悲願がついに動き出したのです」

この悲願の象徴ともいえる施設がまさに、『円筒分水郡』。

辰野から伊那市に至る天竜川西岸段丘まで全長約26kmにもわたる幹線用水路を造る工事は1919(大正8)年~1939(昭和14)年にかけて竣工され、52基の円筒分水工が設置されました。

しかも驚くべきは、80年以上前に建設された分水工のうち35機が、修理を重ねながらも今なお現役で用いられているということ。全国各地にある円筒分水工のなかでも最大規模であるとし、2006年には公益社団法人土木学会の「推奨土木遺産」にも認定。田んぼに水が入る4月20日以降は、その生きた姿を見て回ろうと、土木マニアや地域のサイクリストたちに人気のツーリングスポットとなりつつあるのです。
円筒だからよく見える、納得できる
 では円筒分水工とはそもそも、どのようなものなのでしょう。平井さんはこう説明します。

 「西天竜幹線用水路によってもたらされることとなった水を、それぞれの地域で均等に分けるために採用されたのが、『円筒分水工』のシステムです。サイフォンの仕組みを利用して地下から吹き上げられた水は、均等に開けられた円筒の隙間(オリフィス=孔)からそれぞれの水路へと、決められた分だけ引き込まれていきます。水を必要とする地域ごとに分水工は設置され、当初はその数が50以上にのぼった、というわけです。

 その水の、分け隔てのない様子が一目瞭然で明らかなことが、水争いの多かった地域では合意を得やすく、うってつけの形式だったようで。同様の設備は、伊那谷のみならず全国で建設されているんです」
模型を指差しながら説明をしてくださる平井さん
 農商務省の技師であった可知貫一氏によって発明され、大正3年に岐阜県で第一号が完成した「円筒分水」。伊那谷では、当時西天竜幹線水路事業のまとめ役であった第3代天竜耕地整理(現在の西天竜土地改良区)組合長である穂坂申彦氏がこの方式を採用したことから、「穂坂式分水池」と呼ばれ、親しまれてきたのだとか。

「一つひとつ巡っていただくと、豊かな水の勢いとともに、年代の違いから現在の使われ方など、さまざまなことを感じていただけると思います」(平井さん)
「時代は変わっても、『鍾水豊物(しょうすいほうぶつ)』の想いをつなぎたい」
今ではもはや当たり前のように定着している、西天竜の広大な田園風景。豊かな水に満ちた美しき風景が、長年をかけた人々の手によってもたらされたものであることを知る人は今、どれくらいいるのでしょう。

それは、先人たちの願いが叶えられ、つつがなく水路が機能し農地が拓かれていったからこそ。だからこそ平井さんは、「苦労の時代を忘れ去るのではなく、語り継ぎ未来へと守り継ぐ施設としていけたら」と想いを語ります。
円筒分水のほかにもう一つの、西天竜の水の歴史を今に伝える施設、箕輪町中箕輪にある「八乙女の水路橋」。西天竜幹線用水路のために建設されたものですが、水のルートが変わったことで役目を終え、現在は道路として再利用されています。
平井さん自身も、この水路が完成した当時のことは、朧げながら記憶しているのだとか。

「昭和25年当時、私は小学生でした。あの頃、『みんなの悲願の幹線水路ができたのだから、記念の石碑もとびきり大きなものじゃなきゃいけない』とばかりに、それはそれは大きな石が用意されたんです。箕輪町の木下にまだ電車の駅があったころ、仙台から運ばれてきた石が線路のそばへドーンと横たわっていた光景は、今でも忘れられません。動かすときはコロをつかって、人と牛とで力を合わせて、人力で引き上げたと聞きますよ」

もちろん現在も箕輪町中箕輪に建つその巨石の石碑は、高さ8m、厚さ60cm、重さはなんと30トン。他に類を見ない規模感から箕輪町の石造文化財に指定されており、江戸時代からの悲願達成への想いのほどが感じられます。
石碑に刻まれた文字は「鍾水豊物」(しょうすいほうぶつ)。水をあつめ物を豊かにする、との言葉の重みが、平井さんのお話の後では一層胸に迫ってきます。

「『米を作れば収入になる』とされた江戸・大正・昭和の時代から、今では米をつくる人の後継者不足が問題になるほどに時代は変わりました。円筒分水も老朽化が進み、農業用水路であるこの水路の維持管理は大きな課題となっています。しかし、この幹線水路と円筒分水は、一度失ってしまえば二度と取り戻すことのできないような設備であることも、また事実です。先人たちの苦労の末の農地は子や孫の世代までつないでいくことが、私たちの役目だと思っています」

 西天竜幹線水路に水が入るのは、毎年4月20日から9月15日まで。

生きた土木遺産、農業遺産をめぐる旅は、当たり前ではない水の恵みと、その恵みがもたらした世界の変化に思いを馳せる時間となりそうです。