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高遠城物語
高遠のシンボル
伊那市高遠の中心地に建つ高遠城址公園。桜の名所として有名な、この地のシンボル的存在です。日本百名城にも数えられるこの高遠城、どんな歴史があるのでしょうか?
武田信玄による支配
高遠城の築城年代は不明とされていますが、もともとは高遠氏が拠点にしていた城と考えられています。それが、戦国時代になって甲斐の武田信玄によって滅ぼされ、天文16年(1547年)に大改修が行われました。以後、信玄の近親者ばかりが城主となっていることからも、この城が南信濃支配の重要拠点とされていたことがうかがえます。
巧みに地形を利用
三峰川と藤沢川の合流地点の河岸段丘上に建つ高遠城は、段丘の上から見ると平城のように見えるが、他三方から見ると山城のように見えます。「平山城(ひらやまじろ)」と呼ばれる形の城です。東側さえ防御すれば、それ以外からの攻撃は困難で、天然の要塞となっていました。
高遠城の戦い
武田氏の支配が終わるきっかけとなったのが、天正10(1582)年の織田信長軍の侵攻です。
信長の嫡男信忠率いる5万の兵に、次々と諸兵が降伏、逃亡する中、時の城主仁科五郎盛信は、わずか三千の兵をもって迎え撃ったといいます。しかし多勢に無勢、城は陥落し、仁科五郎盛信も自害したと伝えられています。
織田軍の信濃侵入に際して武田軍が見せた唯一の徹底抗戦がこの高遠城の戦いで、大群を前に一歩も退くことなく戦った仁科五郎盛信は、県歌「信濃の国」にも登場。長野県民なら一度は名前を聞いたことのある武将です。
江戸時代
江戸時代の高遠には、高遠城を拠点に高遠藩が置かれました。関ケ原の合戦の後、家康の指令により、保科正光が高遠城に入ったのが元和3年(1617)年のこと。そして、正光の没後、跡を継いだのが、二代将軍秀忠の子、保科正之です(ちなみに地元伊那市では、この保科正之を主人公にした大河ドラマ実現のために、署名運動も行われています)。
その後、保科氏が出羽最上(山形市)に転出すると、鳥居氏、内藤氏と支配が続き、江戸時代の終わりと共に廃城となりました。
現在
その後、高遠城跡は明治9(1876年)年に公園化され、今日に至ります。現在、公園には約1500本もの桜の木が植えられ、春には県内外から多くの人が訪れる一大観光スポットとなっています。
参考:高遠城址ガイドブック ―高遠城址 この城をもっと知ろう―(編集発行 高遠町教育委員会)
伊那市公式ホームページ