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地元ガイドの解説に納得!高遠城下史跡巡り その1
高遠案内「ふきのとう」の会
南アルプスの山懐に抱かれた城下町高遠。その中で特に城跡から指呼の間(しこのかん)にある有名史跡を、地元の皆さんで作る「高遠案内『ふきのとう』の会」のガイドの方の案内で巡る機会に恵まれました。丁寧な説明を聞きながら、伊澤修二生家、県宝馬島家住宅、蓮華寺(れんげじ)、そして建福寺(けんぷくじ)の4カ所を見学してきました。まず、伊澤修二生家と県宝馬島家住宅をその1で紹介します。蓮華寺と建福寺は、その2をご覧ください。
現・東京藝術大学初代校長、伊澤修二の生家を訪ね
この日のガイドは、「高遠案内『ふきのとう』の会」の寺田利男(てらだ・としお)さんです。寺田さんとは、高遠城址公園のグランドゲート駐車場で落ち合って、まず、明治時代に日本の教育制度の確立に尽力した伊澤修二の生家に向かいました。

駐車場からは坂を上り、高遠藩の藩校であった進徳館(しんとくかん)、現在は高遠城址公園北ゲートになっている二の丸門跡を過ぎ、外堀を越え、目的地へ。外堀を超える時には、寺田さんから、「外堀の内側は上級武士、外側は下級武士の武家屋敷になっていた」と説明され、思わぬところで、江戸時代の階層社会に触れたような不思議な気持ちになりました。
伊澤修二生家を示す標識
10分ほど歩くと、天理教の教会があり、その近くから奥に続く小道の入り口に伊澤修二生家を示す標識があります。全く存在感を感じさせない入り口から50mほど小道を入っていくと、小さな質素な平屋建ての建物。「伊澤修二先生出生之地」という石碑が建っていました。

中は、六畳ほどの部屋が二部屋と八畳ほどの部屋が二部屋。出入り口は土間で、玄関もなく、猫の額ほどの縁側がついた極めて質素な造りの家でした。家系図によると、年が離れているとはいえ、10人もの兄弟姉妹のいた伊澤家。こんな狭く窮屈なところに住んでいたのかと思うと、驚きを感じずにはいられませんでした。
伊澤修二生家
寺田さんによれば、修二は、この地に生まれ、明治の初めになって町内の相生町に移り住むまで、この住宅に住んでいたことになるそうです。下級武士の家に生まれ、貧困の中でも8才から藩校・進徳館で学び、16歳で江戸に出てからはジョン万次郎等から英語を、また京都に遊学して蘭学を学んで、ついに藩の貢進生(こうしんせい)として大学南校(のちの東京大学)に進んだ「学びの人」。その後、東京師範学校(現在の筑波大学)や、東京音楽学校(現在の東京藝術大学音楽部)の初代校長を務めるなど日本の教育制度の礎を築いた、高遠町が誇る立志伝中(りっしでんちゅう)の人です。東京藝大とは現在も共同して伊澤修二記念音楽祭が毎年伊那市で開催されています。
高遠藩士の住宅は藩の官舎としてあてがわれたもので、藩内の身分や役柄によって屋敷の場所や広さが決められ、身分や格付けが変わると転居しなければならないこともあったそうです。この住宅は、裏長屋といわれた奥まったところにある質素な造りの下級武士住宅で、寛政年間(1789年から1800年頃)に建築され、建築面積は29.25坪(96㎡)の広さで、屋根は切妻形式の板葺石置屋根になっています。

なお、この住宅は、高遠藩士全ての住宅の間取りを記した「御家中屋敷絵図」の中に伊澤修二の父勝三郎の家との記載があり、郷土の名士を生んだ家であり、現存する貴重な武家住宅を保存するために、昭和43年に旧高遠町(現伊那市)に買い上げられ、解体され、絵図を元にして当時のままの間取りで復元工事されたのちに、伊那市指定有形文化財として公開されたものです。

進徳館で学んだ武士たちの子弟も修二と同じような環境の者が多かったのではないかと思いますが、進徳館で学んだ者は500人にもなるそうです。ちなみに県内にあった松代藩文武学校で学んだ者は100人ほどだそうです。高遠藩がいかに教育に力を入れていたかが分かります。

かつて長野県は教育県だと言われていました。それでも、明治の初めに各地に学校が作られた時、教師の数が足りなかったそうです。そんな時、進徳館で学んだ300人が、教師として県内に散らばって行き活躍したそうです。
上級武士の暮らしが垣間見られる県宝馬島家住宅
次に県宝馬島家住宅に向かいました。グランドゲート駐車場からは車で5分ほどの所で、国道152号線まで下り、右折し、高遠公園下の交差点を越えると左側にありました。施設の駐車場に車を止めて、入館しました。
県宝馬島家住宅
この施設は、伊那市民俗資料館、高遠なつかし館、旧馬島家が併設されており、高遠なつかし館で入場料200円を払っての見学になります。

高遠なつかし館は、「観て・さわって・やってみる」体験的資料館になっており、旧馬島家を偲んだり、かつての生活や当時使われていた農機具や日常品などを観ることの出来る施設となっています。

また、この入場料の中には高遠なつかし館より徒歩で約10分(700m)のところにある伊那市指定文化財 旧池上家(商館跡)の入場料も含まれています。

この住宅は、享保12年(1727年)に松本藩水野家から高遠藩眼科医として抱えられた馬島家に対して、天保7年(1836年)にあてがわれた屋敷でした。「御家中屋敷絵図」に記された馬島家の間取りを見ると、現在の間取り・痕跡とほぼ合致することから、主屋は天保7年頃に建てられたことが確認されています。また、平成15年(2003年)9月16日に長野県宝に指定されています。加えて、高度経済成長期の人間模様を描いた映画「ALWAYS 三丁目の夕日64」のロケ地にもなったそうです。
馬島家住宅 主屋平面図
馬島家住宅 茶の間
見学するときは、土間から入ります。入ると突き当たりの壁に、案内放送を流すスイッチがあります。そのスイッチを押してから、室内に入り見学すると屋内の様子がよく分かります。

見学当日は、ひな人形展が行われており、馬島家に伝わった江戸時代後期の享保雛、古今雛、明治時代の屋形雛をはじめとし、有職雛(ゆうそくびな)、つるし雛など現代までのひな人形が展示されていました。放送では、「非常に簡素な、江戸時代の武士らしさを感じさせる住宅」だと説明されていましたが、部屋数も多く、その質も高級で、伊澤修二生家とはずいぶん違う印象でした。特に、国道152号開設工事に伴う移築の際に多少小さくなったといわれる庭園が、それでもたいそう立派だったこともあり、改めて武士の間の身分や格付けの違いの大きさを感じました。
続いて蓮華寺と建福寺の二つのお寺を巡りましたが、その様子は、地元ガイドの解説に納得!高遠城下史跡巡り その2でお伝えします。
*この記事の情報は、令和3年3月に制作し、令和6年1月に一部内容の見直しをしたものです。
*入場料は、高遠なつかし館・旧馬島家・旧池上家の3館共通料金です。旧池上家にスタッフは常駐しておりませんので、高遠なつかし館スタッフに見学の旨伝えて訪問してください。
みんなの体験記ライター
投稿者buku
年代60代
趣味サッカー観戦、アウトドア、写真撮影
自己紹介高校教師のなれの果てです。横浜Fマリノス命です。伊那谷の四季を見ていると、こんなきれいなところに生まれて良かったと思うことしきりです。