みんなの体験記
Blog
地元ガイドの解説に納得!高遠城下史跡巡り その2
高遠案内「ふきのとう」の会
南アルプスの山懐に抱かれた城下町高遠。その中で特に城跡から指呼の間(しこのかん)にある有名史跡を、地元の皆さんで作る「高遠案内『ふきのとう』の会」のガイドの方の案内で巡る機会に恵まれました。丁寧な説明を聞きながら、伊澤修二生家、県宝馬島家住宅、蓮華寺(れんげじ)、そして建福寺(けんぷくじ)の4カ所を見学してきました。

その内、伊澤修二生家と県宝馬島家住宅はその1で紹介しました。その2では、蓮華寺と建福寺をご紹介します。
花どころ蓮華寺と悲恋の絵島の墓
伊澤修二生家と旧馬島家を見学し、武士の暮らしぶりをほんの少し感じることができた後、次は、蓮華寺に向かいました。
蓮華寺
蓮華寺には、史跡巡りのスタート地点であったグランドゲート駐車場から車で5分ほどで着きました。高遠公園下交差点を右折し、商店街に入る手前を右折して諏訪方面にしばらく行くと、左手にありました。ここにも駐車場があったので、石段から向かって右側の駐車場に車を駐めました。

日蓮宗・妙法山蓮華寺は、初めは長遠寺といい、高遠町藤沢の北原にありましたが、慶安4年(1726年)に、鳥居氏により現在の場所に移され、後に蓮華寺と改称されました。花どころとして、シャクヤク(見頃は例年5月下旬~6月上旬)、ボタン(5月中旬)、アジサイ(6月)の名所としても有名です。

この寺は、江戸時代に高遠に流されて来た絵島の墓があることでも有名です。絵島は、江戸時代中期の大奥御年寄の地位にいた女性で、当時の人気歌舞伎役者であった生島新五郎との恋仲が発覚し、これを機に関係者1400人が処罰されたという、「江戸時代大奥随一のスキャンダル」絵島生島騒動の当事者です(一部に絵島冤罪説もあります。特集「高遠に残る江島囲み屋敷」参照)。

高遠に流された絵島は、生前、日蓮宗に帰依し、寛保元年(1741年)、病を得てこの世を去りますが、「もし相果て候はば、日蓮宗にて候」という遺言を残し、蓮華寺二十四世本華のお導きを受け、戒名を「信敬院妙立日如大姉」と授与されて、蓮華寺の後丘に埋葬されることになったそうです。
絵島の墓
しかしながら、時に従い、絵島は罪人であったということもあり、知る人はいなくなっていったようです。そんな中、大正5年に、絵島に高遠への配流の判決を下した老中秋元但馬守喬知(あきもとたじまのかみたかもと)の家臣の末裔であった文豪・田山花袋(たやまかたい)が寺を訪れ、住職に絵島の墓を尋ねると、「訪れたかったら勝手に探してみるがいい」と言われたそうです。戒名を知っていた花袋が、同行した青年三人と、墓石を一つ一つ丹念に探して回り、高く茂った夏草の中に倒れていた絵島の墓石を見つけ出したそうです。以後、多くの文人が蓮華寺を訪れることになったそうです。

江島の墓は、苔むした墓になっていますが、寺の裏の小高い丘の上にあります。今は、植林された木のために多少景色は見えなくなっていますが、高遠の街を一望でき、南アルプスや中央アルプスの山々を見ることができる場所にあります。

絵島の墓の左手には、「女人成仏」と記された台の上に、彼女をかたどったと思われる女性の石像が置かれています。これは、絵島二百五十遠忌(おんき)記念として、「女性の幸福とすべての衆生の現世安穏、後生善処を祈り」建立されたものであり、身寄りのない女性が入れる永代供養墓となっています。
また、その近くには、「市指定建造物 七面堂」があります。これは、高遠藩主鳥居忠則によって延宝8年(1680年)に江戸幕府4代将軍徳川家網の位牌堂として建立されました。その後、元禄2年(1689年)に七面堂と改められました。この中には、日蓮宗守護神七面大明神が祀られています。昭和62年7月14日に市の文化財に指定されました。靴を脱いで上がると、格子戸越しに中を見ることができます。
市指定建造物 七面堂
鎌倉時代に大覚禅師が開設――建福寺
次に、最後の見学地、建福寺に向かいました。今回もほんの数分の道のりでした。市街地に戻り、商店街を通り、JA上伊那 高遠支所横の商店街の駐車場に車を駐めました。建福寺の裏にも駐車場があるそうですが、狭い道を通らないといけないので、この駐車場にしたということです。しかし、車を降りて駐車場横の道に出ると、建福寺の石段が目の前に見えていました。
建福寺本堂へ続く石段
臨済宗・大宝山建福寺は、鎌倉時代の建長年間に、大覚禅師が鎌倉から来て建て、鉾持山乾福興国禅寺ほこじさんけんぷくこうこくぜんじと称しました。その後、高遠城主となった武田勝頼に手厚く保護されるなどしましたが、武田氏滅亡後、この地を治めた保科氏の菩提寺となり、大宝山建福寺と改号されました。高遠藩主保科正之は江戸幕府2代将軍徳川秀忠の四男にあたりますが、正式には認知されず、高遠藩主保科正光の養子として育てられました。そのためか、本堂の棟には、真ん中に保科の「九曜の星」、その両側に松平の「葵」の紋が輝いています。この「葵」の紋については、「葵」の向きが逆ではないかという人もいるそうです。ちなみに、正之が会津藩主に封じられた後の子孫は、松平を名乗っていたそうです。

建福寺へと続く石段を見上げると、右側に高遠石工 守屋貞治の高弟(こうてい) 渋谷藤兵衛作の楊柳観音があり、その後ろ一段上には祠の中に六地蔵尊が安置されていました。そして石段の左側に貞治作の延命地蔵大菩薩がありました。そしてその左側に、祠の中に納められた西国三十三所観世音菩薩が安置されていました。順路が示されていましたが、この三十三所観世音菩薩は西国三十三所観音霊場を模しており、順路通り全てを見て回ると西国巡礼をしたような気分になれる場所でした。
この他にも、本堂へと続く石段の両側や境内には、高遠石工によって彫られた多数の石仏が安置されています。そのうち40体あまりが貞治の作だそうです。また、墓地の中にも貞治作の石仏があるそうです。貞治は個人の墓にも石仏を作ったそうです。



本堂の横には保科正直、保科正光、そして武田勝頼の母親である諏訪御料人(湖衣姫)の墓が並んであります。保科家の墓に、正直の母親の墓ではなく、武田家の人間である諏訪御御料人の墓があるのはおかしいと、考える人もいるようです。そのような人たちの中には、この墓の整備は、後に会津藩の人たちに頼まれてのものであり、その際に間違えたのではないかと考える人もいるそうです。
左から保科正光、保科正直、湖衣姫墓
また、本堂に向かって右側に仏足石碑があります。この仏足石は、天保6年(1835年)に奈良薬師寺の仏足石を模して、家老の岡村菊叟の進言で建立されたものだそうです。

最後に、本堂前の境内に立ち、庭や池などを見て回ると、この寺は、支配者に近いところにある、格式を感じさせる寺だと感じました。
建福寺本堂
今回は、4カ所を、車を使って、ほんの2時間ほどで見学しました。快晴で、中央アルプスや南アルプスの眺めは最高でした。何より、寺田さんたち「高遠案内『ふきのとう』の会」の皆さんが、しっかりした調べたことをもとに、史跡をひとつひとつ説明して下さったので、様々な歴史的事件への関心も掻き立てられ、とても楽しい時間を過ごすことができました。

高遠の街はコンパクトに出来ています。ピクニック気分で一日掛けてゆっくり歩いて見て回るのも、「ブラ・タモリ」のノリで楽しいと思います。


*この記事の情報は、令和3年3月に制作し、令和6年1月に一部内容の見直しをしたものです。
みんなの体験記ライター
投稿者buku
年代60代
趣味サッカー観戦、アウトドア、写真撮影
自己紹介高校教師のなれの果てです。横浜Fマリノス命です。伊那谷の四季を見ていると、こんなきれいなところに生まれて良かったと思うことしきりです。