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南アルプスの開拓の父 竹澤長衛の生涯
竹澤長衛(たけざわちょうえ)という人物を知っているでしょうか?大正期から昭和中期にかけて、南アルプスの登山道開拓や山小屋建設に尽力した「南アルプス開拓の父」とも評される人物です。

伊那市では、その功績をたたえ、また安全登山を誓う場として毎年「長衛祭」を行っており、会場となる南アルプス北沢峠には、毎回多くの登山関係者が集まります。
そんな竹澤長衛の生涯について、「竹澤長衛物語(松尾修著、山と渓谷社発行)」をもとに、彼の南アルプス開拓の軌跡をご紹介します。
生前の竹澤長衛氏(撮影:長谷アルプスフォトギャラリー)
明治22年 長谷村に生まれる
長衛は明治22年、長野県上伊那郡黒河内村戸台(現・伊那市長谷戸台)に竹澤兼松、キクの長男として誕生しました。
尋常小学校卒業後、猟を中心とする山仕事を青年期になるまで続けました。猟師としての長衛は、特に熊猟にその実力を発揮し、若くして「熊長」のあだ名をつけられたほどの腕前でした。
この経験によって、体力を培うとともに、南アルプス北部の地形を身体に覚え込ませるもとになったそうです。また、動植物の生息や特性、そして変化の激しい山の気象を読み取る知識など、山で生きる上で必要不可欠な技術も同時に習得することとなりました。

わが国では、明治期になって古来からの宗教的登山から、スポーツや娯楽的な目的での登山が行われるようになりました。明治二十年代以前は、北アルプスへの登山が集中していましたが、三十年代に入ると、南アルプスへの登山者が増えてきました。ただ、南アルプスでは、登山道も明確になっておらず、猟師や山仕事の人間の案内が必要だったそうです。
長衛も、猟師のかたわら荷運びの人夫として雇われて、仙丈ヶ岳や東駒ヶ岳(甲斐駒ヶ岳)に登ることが多かったようです。
北沢長衛小屋
登山の案内業を長年続ける中で、長衛は、北沢峠に山小屋を建設したいと考えるようになりました。

「わしは長く山に世話になって暮らしてきました。山はわしを大事にしてくれとります。わしも同じように山を大切にして、山に入る者が山に迷惑をかけないようにしてえと思うとります」
山小屋の設立は、年々増える登山者の安全を守るうえで必要なことでした。 

「今じゃ、たくさんの人が山に入ってくるようになって、見ていて中にゃあ危なっかしい人もたくさんいます。わしは、山好きの登山者を大事にしてやりてえと思うとります。遭難など決してあっちゃあならねえことだ。自分ができることは、山小屋造って、少しでも安全な登山ができるようにしてやりてえと、それから、登山者に山の素晴らしさを教えて、山を大切にしてもらいてえ。それが山への恩返しになるんじゃねえかと考えとります」

長衛は、登山者を守る砦をこの地に建てるのだという思いをもとに、関係各所へのさまざまな働きかけを行いました。そして、昭和5年11月、北沢峠に「北沢長衛小屋(現在も「長衛小屋」の名で運営されている)」が誕生したのです。41 歳の時のことでした。
当時の北沢長衛小屋(画像提供:松尾修氏)
長衛は小屋を訪れる登山客の面倒をこまめに見ながら、山の動植物のこと、天候のこと、注意すべきことなど話していたそうです。なかでも彼は口癖のように
「山はでえじにしにゃーいけねえ」
「山は大きいでなぁ、どけえも逃げていかねえ。天気が悪かったらまた来るさ」
「帰れる所までしか、行っちゃいけねえよ」
と伝え続けたそうです。

長衛の山を思う気持ち、登山者を思う気持ちが伝わってくる言葉たちです。
「長衛の北沢小屋」の法被を着た長衛(長谷アルプスフォトギャラリー展示物)
登山道開拓
北沢長衛小屋建設後、登山の一般大衆化はますます進み、女性の登山者も増えていました。
「仙丈ヶ岳を女性でも安心して登れる山にしたい」という思いから、今ある道よりもさらに登りやすく安全な登山道を整備する、というのが長衛の次なる課題となりました。
昭和16年、国中が戦争へと突き進むにつれ、登山者は減少傾向にありました。そんな中、長衛は、この機会に2本の新道を開拓することとしました。

1つ目が藪沢新道です。これは、小仙丈尾根の上りが急になる五合目から、藪沢の谷を挟んで馬の背の尾根に移り、頂上に到達する道です。
長衛は、この巻道の切り開きのために、何度も山腹の原生林の中を歩き回り、最適な登山ルートを検討し、ほとんど独力で新道開拓をやり遂げました。この新道によって、登りの苦労が軽減できるとともに、登下山のルートを変えることで、より違った景色を味わえるようになりました。

そして藪沢新道開拓に続き、休む間もなく着手したのが、栗沢山への直登ルート=栗沢山新道の開拓です。山小屋の仕事と平行しながら三ヶ月半の期間を要して、新道が完成しました。
雪山を歩く際に使っていたわかん(長谷アルプスフォトギャラリー展示物)
終戦を経て
昭和24年、終戦後の世の中が落ち着きを取り戻すとともに、再び多くの登山者が山を訪れるようになっていました。長衛はこの年の4月から、再び新道開拓に着手しました。仙丈巻道新道(小仙丈尾根の東側腹の巻き道)です。
案内人の仕事を通し、山と人を愛する気持ちが大きくなるにつれて、山と人がよりよい関係になるように尽力したいという気持ちが強くなっていった長衛。山小屋を建てて登山道を整備する行為は、その思いを具現化したものでもありました。
そして、続いて取り掛かったのが東駒ヶ岳の登山道の整備です。駒津峰(こまつみね)から双児山(ふたごやま)へと続く尾根筋を切り開いて登山道を作りました。
藪沢小屋
昭和26年、長衛は自らが開拓した藪沢新道の中間にあたる標高2,540メートルの場所に、藪沢小屋を新築しました。
北沢峠の小屋に比べると規模は小さいため必要とする建築資材は少ないものの、標高は500メートルも高い位置にあるため、人力による資材の運搬は相当に難儀だったそうです。

この小屋の運営は、息子である昭一に、北沢峠の小屋は、もうひとりの息子である重幸に、二人で協力し合って運営するよう託したそうです。
藪沢小屋は、現在も樹林帯の中で静かに佇んでいます。
功労賞と最期
60歳をなかばにして、長衛の功績は社会的に高く評価されるようになりました。
昭和28年には、長野県知事からアルプスの観光功労者として表彰を受け、続いて昭和29年には静岡鉄道管理局長から南アルプス開発の功労に対する表彰を受けました。いずれの表彰も、独力で登山道を開拓整備し、また山小屋を整備して登山者の便宜と安全を図った長年の努力を称えるものでした。
さらに昭和31年には、中部日本新聞社(現・中日新聞社)が主催する「中部社会功労賞・勤労賞」も受賞しています。

昭和33年3月10日、南アルプスの開拓に人生のすべてをかけた山男は、69年の生涯を閉じました。妻に託した遺言の通りに、愛用していた「長衛の北沢小屋」の法被とチロリアンハットを纏い、サブザックを背負い、登山靴を履いて、ピッケルを握った生前の登山姿そのままに、仙丈ヶ岳を向いて埋葬されました。
旧墓所に設置されている碑文(写真提供:松尾修氏)
山を愛し、人を愛した竹澤長衛。今も多くの登山者が、彼が開拓した登山道や山小屋の恩恵にあずかっています。
南アルプスを訪れた際には、登山者の安全を願って、生涯を南アルプス開拓にささげた男がいたということを、ぜひ思い出してみてください。そして自身の安全を第一にしながら、存分に山を楽しんでください。
※「竹澤長衛物語(著者:松尾修、山と渓谷社発行)」:竹澤長衛の行動は史実に基づくが、文中の会話等は著者の創作によるもの。本作には、本文で抜粋した以外にも、長衛に関する、さまざまなエピソードや記録が綴られている。
※ 本記事の掲載に際しては「竹澤長衛物語」著者の松尾氏より承諾をいただいています。