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飲み、踊り、走る-伊那市山寺の奇祭=やきもち踊り
ユーモラスな踊りは、最後は「疾走」に
写真提供:伊那市
伊那市山寺区上村にある白山社八幡社合殿では、4月中旬の土日の例祭で、「やきもち踊り」というユーモラスで、親しみのある〝奉納踊り〟が行われます。紋付き袴の正装で身を包んだ地域の人々が、神社の境内で輪になって踊り、時々踊りを中断して、地面にござを敷いて作った即席宴会場で酒と肴ときざみ煙草を楽しみます。一服すると、また踊るという動作を3回ほど繰り返します。

そして最後に、踊りが終わりを告げるやいなや(告げるか告げないかの瞬間に)、われ先にと鳥居をくぐりぬけて境内から逃げ出し、最後に残されたものが「厄」を一身に受けて、「役もち」(地域の世話役当番)になるーという伝統ある祭りの踊りです。昭和48年には長野県の選択無形民俗文化財に指定されています。

なんとものどかでユーモラスな踊りは、最後に駆け抜ける人々の必死の形相とともに、テレビなどでたびたび報道され、伊那谷以外にも知られるところとなり、現在では見物客やカメラマンが神社の境内を埋め尽くすほど評判のイベントになっています。
伊那谷の食や文化の豊かさ、おおらかな地域がらを象徴するような、この「やきもち踊り」を地域の方々と一緒に楽しんでみてはいかがでしょうか。
しめ縄づくり、神前の〝宴会〟準備で儀式はスタート
写真提供:伊那市
踊りの行事を主催するものは、「当屋」(とうや)と呼ばれます。昔は、村の有力者が当屋になっていたようですが、今では山寺区七町が交代で受け、町総代が当屋を務めているそうです。昔は、祭りは例祭の八日前の4月8日の注連縄作り(しめなわづくり)から始まり、そして翌日4月9日に当屋祭が行われました。当屋祭では、濁酒(どぶろく)の仕込み、肴のカジカ(今はイワナ)を焼き、きざみ煙草に火を付ける火縄作り等を行った後、一同を着座させ、宮司がお祓いをしたのち、祝辞を奏上し、「本当」(ほんとう:当屋のリーダー)が玉串を捧げました。そして、一同お膳について祝宴というのが当屋祭の流れだったようですが、近年はだんだんと略式化されているそうです。ちなみに、今は、濁酒は、業者に発注しているようで、住民は、注文するとやきもち踊りのラベルのついた瓶に入った濁酒を購入することが出来ます。
境内に敷かれた赤い絨毯の上で「踊り始め」の儀式がスタート
写真提供:伊那市
本番の踊りは、本祭りの祭典が終わった後、始まります。境内に敷かれた赤い絨毯の上で行われます。

やきもち踊りは「引継式」から始まります。全員で、天下国家が平和なことを祝う謡曲「四海波」(しかいなみ)を謡う間に、この引き継ぎ式は行われます。
昨年の当屋が、保存会長から当屋箱を受け取り、これを順々に手渡し、最後に「新本当」(しんほんとう:今年の当屋のリーダー)が受け取り、本殿に納めに行き、ご弊を棒げてきて、役員、保存会員、最後に一般見物人のお祓いをして、ご弊を拝殿に納めてきます。

新本当が戻ってきて着席すると、本当は提灯を持って新本当のところに行き、「お願いします」と言って提灯を手渡します。これで当屋の引継式が終わります。

次に踊りの準備になります。歌い手四人が円座の中に二人ずつ向き合って座り、踊り手は歌い手の周囲に円形を作って座ります。
飲めや、踊れや…
写真提供:伊那市
歌い手四人は濁酒・肴・きざみ煙草を各人に配り、酒盛りの準備をします。そうすると、肴のイワナをつまみながら濁酒を飲み交わし、きざみ煙草をキセルで吸いながらの酒盛りが始まります。酒盛りが終わると、踊り手は立って踊る準備を始めます。踊りは「前踊り・中踊り・後踊り」の三段に分けて踊ります。踊りと踊りの間には、酒盛りが入ります。踊りは、足を振り上げ、ユーモラスに行われます。酒が入って踊るには、結構ハードな踊りです。
クライマックスの〝疾走〟
写真提供:伊那市
クライマックスの後踊りが始まると、様相が変わります。前踊りと中踊りの時には、踊り手は楽しそうに円を描いて回って踊っていますが、後踊りになるとだんだん動かなくなってきて、みんな鳥居の近くへ近くへと向かっていきます。後踊りが終わった途端、先を争ってその場から鳥居に向かって逃げ出します。下駄は鳥居の外に置いてあるので、素足のまま逃げます。逃げ遅れると疫病にかかるとの言い伝えがあるため、表情は真剣そのものです。その姿がまたユーモラスで笑いを誘います。

やきもち踊りの名の由来としては、やきもち踊りの謡いの一番の「焼餅がはらんで…」から「やきもち踊り」になった説と、この踊りの最後の場面で逃げ遅れた人が「厄を持つ」からきたとの説があります。昔は、「厄を持つ」にかけて「役を持つ」ということで、集落の世話役の当番にさせられたらしいです。

もちろん、逃げ遅れた人は、「厄を持つ」と言われていますが、やきもち踊りの後には、直会(なおらい)という酒宴を行って、参加した一同で「厄」を落として日常生活へ戻っていきます。
写真提供:伊那市
お伊勢参りのお土産―やきもち踊りの起源
写真提供:福澤桂
やきもち踊りがいつの頃からはじめられてきたのかは詳しく分からないようですが、鎌倉時代末期と言い伝えられているようです。現在最古の記録としては、天明二年(1782)の文書が残っているそうです。

昔は、お伊勢参りが盛んで、鎌倉時代には伊勢講を作って集団でお参りに行き、帰りには塩などを買って馬につけて来たといわれています。

やきもち踊りの謡の歌詞に、大津、松坂、伊勢等の地名が繰り替えし出てきますが、そこから推測すると、時代ははっきりしませんが、お伊勢参りに行った人たちが、近江か伊勢のあたりで行われていた踊りを習ってきて、それを毎年例祭で踊るようになってきたのではないかといわれています。

また、三河国額田郡山中村字舞木(現在の岡崎市の東部)の八幡宮にもやきもち踊りと同じような踊りがあるとのことで、「八幡の宮」という名称もやきもち踊りの謡の歌詞に出てきます。
やきもち踊りと共に育って…
写真提供:福澤桂
(寄稿:伊那市山寺在住 福澤 桂さん)

私は、昭和30年代前半の生まれですが、毎年毎年、このやきもち踊りを楽しみにして育ってきました。当時、このお宮の境内は子供たちの遊び場だったので、子供たちは毎日放課後に集まって、鬼ごっこや三角ベースなどをして遊んでいました。しかし、3月の終わりくらいになると、区の役員の指示で6年生が中心になって子供神輿の準備を始めました。大人たちも落ち着かなくなり、「忙しい」だの「面倒くさい」だの言いながらも、大人たちだけで集まって楽しそうに何かやっていました。大人たちが集まって「何をしているのか」…それを徐々に知っていくことが、この地域で「大人」になることだったのです。

祭りの当日になると、父親が、紋付き羽織・袴・白足袋の服装に新しい下駄を履いて出かけていき、一杯やってご機嫌になって帰ってくるのが常でした。年少の頃は「なんでだろう?」と思うくらいでしたが、しだいに、大人たちは、お宮の境内でたばこを吸いながらお酒を飲んで、踊っているらしいということを知り、次には、それが伝統的な祭りだと知り、成長するにつれてその理由も分かるようになってきました。そして、中学生になった頃、大人たちがお酒を飲んで輪になって踊っている、あのやきもち踊りが、伝統民俗芸能(※)に指定されたと聞いて、びっくりしたのを覚えています。成人してからは、地域の人々と共にやきもち踊りを楽しんでします。

こんな風にして守り続けられている地域の奇祭「やきもち踊り」をぜひ見に来てください!

※昭和48年3月30日長野県選択無形民俗文化財指定
<参考資料>
「区誌 山寺 続編」
「増補改訂 伊那市神社誌<資料編>」