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神輿を壊す“天下の奇祭”、宮田村の「あばれ神輿」
提供:宮田村観光協会
石段から神輿(みこし)を投げ落とし、柱一本になるまで打ち壊す―。宮田村で7月3週目の土・日曜に行われる津島神社祇園祭の中で最も盛り上がる瞬間です。「あばれ神輿」として伝わるこの行事は、伊那谷を代表する奇祭のひとつに数えられています。毎年新しい神輿がこの日のために作られ、最後には壊してしまうという一風変わった祭りですが、毎年大勢の見物客が村内外から押し寄せ、一心に神輿を破壊する男たちの勇ましい姿を見届けます。
祇園囃子で始まる、津島神社の祇園祭
提供:宮田村観光協会
祭りの舞台は村中心部に当たる「町」地区。祇園祭は「本祭」と「宵祭」の2日間にわたって行われ、あばれ神輿が見られるのは初日の宵祭の夜です。

宵祭は午後からスタート。「祇園囃子(ばやし)」と呼ばれるお囃子が屋台と共に中心街などを練り歩きます。夕方になると、小学生が担ぐ子ども神輿が神社を出発。次いで、祭りの主役・大人神輿がご神体を乗せて境内を後にします。

大人神輿は村内の成人男性が担ぎます。この日のために作られた神輿は、まだ新しく木の香りが感じられるほど。白い半袖シャツに白い短パン姿の担ぎ手たちは通りを練り歩きながら、「わっしょい、わっしょい」と野太い声を響かせます。

通りは女性たちの阿波踊りの連などでにぎわい、打ち上げ花火も上がります。ただし、祭りが最高潮を迎えるのはその後。午後9時すぎ、大人神輿が神社に戻ってきてからです。
石段を転げ落ちる神輿、祭りは最高潮に
提供:宮田村観光協会
神社の前で神主がご神体を社殿へと移し、いよいよクライマックスの時です。

一度は静まり返った会場が、「行くぞー!」という男たちの掛け声で再び活気づきます。神輿は神社正面の石段の最上段まで担ぎ上げられた後、「ガシャン、ドン、ゴン」と鈍い音を上げながら、真っ逆さまに石段を転げ落ちます。
提供:宮田村観光協会
その瞬間、下で待ち構えた男たちが一斉に神輿に飛び掛かり、柱や板をはぎ取ります。石段の上と下とを何度か往復しているうちに、みるみる神輿の形が変わっていき、しまいには中央の柱1本を残すだけになってしまいます。

石段の周りには遠巻きに人だかりが。観客の目当ては、壊れた神輿の破片を持ち帰ることです。それらの破片を家の屋根に上げることで、無病息災などのご利益があると古くから信じられているからです。

見守っているのは地元の氏子に限りません。最後に神輿を壊してしまうという驚きの展開から、祭りは「天下の奇祭」と知れ渡り、立派なカメラを手にした愛好家も村外から駆け付けるようになっています。
江戸から続く祇園祭、無病息災を願って
津島神社の祇園祭については、ある古文書に記述があることから、江戸時代の天保年間(1830~1843年)には開催されていたことが分かっています。

その古文書というのが、2017年に町1区の住民から村に寄贈された「祇園祭奉加帳(ほうがちょう)」。宮田村教育委員会によると、奉加帳とは、寺社に寄進する金品の目録や寄進者の氏名などを記入する帳面のことを指します。

こちらの奉加帳の表紙には「天保七酉(とり)六月 祇園祭奉加帳 世話人」と記されています。旧暦の6月とは今の6月下旬から8月上旬ごろを指すそうで、暑さの厳しい季節を迎えようとする頃に当たります。当時の人たちが、流行り病や台風災害といった災難を祓い清めようと、この時期に祭りを盛大に催していたのではないかと推測されます。

あばれ神輿がいつから始まったのかは定かでありません。かつては街を練り歩いているうちに神輿が壊され始め、神社に戻る頃には柱1本になっていたとも言われています。明治時代になってから神輿にくぎが使われるようになり、そのため現在のように石段の上から落として壊すようになったということです。

あばれ神輿は、1992年3月、村の無形民俗文化財に指定されました。
神輿作りを担う、地元の大工たち
大工が神輿作りの拠り所にしている型板
神輿作りは技術力が問われる仕事です。ある年は「すぐに壊れてしまって張り合いがなかった」と言われ、またある年は「頑丈すぎてちっとも壊れない」と言われてしまう始末。あばれ神輿を作るのは、一般的な神輿と比べても、なお一層難しいわけです。

神輿作りは代々、町地区の大工が担ってきました。神輿には設計図がないので、型枠から柱や桁などそれぞれの部材を再現します。屋根など一部を除いて、ヒノキ材で作ります。すべて手作業のため、制作にはおよそ1カ月かかります。
長年神輿作りに携わってきた伊藤秀雄さん
伊藤建築代表の伊藤秀雄(いとう・ひでお)さん(72歳)は、神輿作りを長年担ってきたひとりです。
父も兄も大工という「大工一家」に生まれた伊藤さん。自身も大工になった20歳の時から、神輿作りを手伝ってきました。当時は町地区にも手練れの大工が大勢いて、神輿作りも活気があったと言います。

その後、父から兄、兄から自分へと技術を受け継いできました。長年使用して古くなった型板は自ら更新しています。ただし、神輿の要となる中央の「真柱(しんばしら)」の型板は、かれこれ50年以上も使い続けているそうです。
神輿の要となる真柱の型板
以前は町1区、町2区、町3区の工務店が順繰りに神輿作りを担当していましたが、近年はそうもいかなくなってきました。宮田村でも高齢化が進んでいます。神輿作りの技術を受け継ぐ大工も70~80歳代で、人数も片手で数えられるほどしかいません。

背景には、住宅建築のスタイルの変化があります。大手ハウスメーカーの台頭により、昔ながらの工務店の仕事は激減しました。ハウスメーカーではすでに加工された部材を使うので、手作業で部材を作る技術を持ち合わせていない若手も少なくないと言います。
津島神社社務所にある完成した神輿の複製品
伊藤さん自身も、若かった頃は神輿の担ぎ手でした。祭りに対する思い入れは強く、「祭りが廃れるってことはこの先もない」と信じています。

そうした中、後継ぎのいない伊藤さんのもとに、「神輿作りを覚えたい」と名乗り出た男性がいました。男性は建設会社に勤めているため、教えられる時間は限られますが、神輿の制作に立ち会ってもらいながら、伊藤さんが技術を伝えています。

「祭りの主役はこれ(神輿)だから。いい加減なものは作れない」。口数の少ない伊藤さんの言葉に、神輿作りにかける思いの強さを感じました。



【協力=宮田村観光協会、宮田村教育委員会】