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高遠石工の活躍した時代背景
平安を願い、神仏に祈りを捧げる
長い戦乱の世に終わりを告げ、ようやく社会が安定した江戸時代。人々の間では、神仏と結びついた民間信仰が盛んになりました。江戸時代は、農民が経済的に発展した時代。家を興し、田畑を耕して家族を養えるようになりますが、度重なる天災や風水害、凶作、流行病など、人為を超えた災いを前に、人々は神仏に祈りを捧げ心の拠りどころとしました。

全国的に民間信仰が盛んになった風潮の中で、寺社の建築、石造物の造立も活性化。江戸時代には、平安・鎌倉時代のような強い権力を持つ人々による造立に加え、庶民の間にも次第に信仰に基づいた石造物の建立が広まっていきました。特に江戸時代中期になると個人や講(こう)、村中などでの造立が盛んに行われるようになり、五穀豊穣・子孫繁栄・健康祈願・厄除け・旅の安全など、あらゆる願いを神仏に託し、祈りの拠点として大切にされました。また、家々でお墓を持てるようにもなり、先祖供養の念と共に平安を願ったのです。
貴船神社の石灯籠(伊那市高遠町藤沢)
貴船神社の石積み(伊那市高遠町藤沢)
高遠周辺は高冷地で、当時の品種では米作りも厳しかったため、家計を支えるため泣く泣く石工になった人も多いとされています。全国的に石造物の需要が増したことも重なり、次第に成り手も増え、高遠の石工たちは各地に出向いて働くこととなりました。
集落の入り口に安置された庚申塔、甲子、道祖神などの石仏群(伊那市長谷)
高遠藩による他国への出稼ぎ奨励
高遠石工が全国的に活躍した背景には、政治的な後押しもありました。

江戸時代、高遠城を拠点にこの地を治めた高遠藩は、元禄4年頃から、藩の税収増を狙って石工たちに領外に出て外貨を稼ぐ出稼ぎを奨励しました。

この頃の藩の財政は大変厳しいもので、度重なる凶作で農民からの徴税も苦しく、さらに高遠藩は、徳川氏の譜代(※関ヶ原の戦いの前から徳川氏の家臣であった大名のこと)であった関係上幕府による出費も多く藩の財政は逼迫しました。そんな中、石工たちは「旅稼ぎ石工」となって外貨を稼ぎ、幕末のある時期には藩の税収の3分の1を稼ぎ出していたというから驚きです。
「石切鑑札」 所蔵 伊那市立高遠町図書館
高遠石工の多くは農家の二男、三男や山峡の農民でした。旅稼ぎは主に農閑期に行われ、藩との間に厳しい御誓文を交わし「運上金を必ず納めること」「農繁期には帰ってくること」「旅先で酒を飲んで問題を起こしたりしないこと」などと約束して旅に出ました。そうした甲斐もあり、石工たちは旅先でも素行よく働き、芸術家さながら優れた技術で石造物を彫り各地で歓迎されました。

高遠における石工の層は厚く、江戸時代に活躍した高遠石工は、1700人以上もいたと推定されています(2020年11月取材時点)。中には、群を抜いて高水準な石造物を彫る専業工も現れ、その石工の元には多くの修業石工たちが集まるようになります。このような高い技術を持った職人たちは、技術水準を高め、同時に「高遠石工」の名を全国に轟かせました。「高遠石工」が一種のブランド化したことによって、その活動も一層盛んになり、各地で多くの作品を残すこととなったのです。
「他國出石切名前書上帳」「旅出石切職之者名前書上帳」所蔵 伊那市立高遠町図書館
良質な石の宝庫
もう一つ特筆すべきことは、高遠藩領には良質な石材が多く産出したということです。

高遠藩の領内でも、特に多くの高遠石工を輩出したのが、高遠・長谷の藤沢郷と入野谷郷ですが、この周辺は石仏を彫るのに適した石の宝庫で、いくつかの採石場から、きめの細かい美しい輝緑岩(きりょくがん:俗称高遠石または青石)や安山岩、花崗岩が多く産出しました。

山間部で耕地が狭く、痩せ地であったこの地域で、多くの有能な石工が誕生したのは、材料である石材に恵まれたことも一つの所以ゆえんだと考えられています。

技を練り、地の利を生かして働いた先人の知恵と努力が、今の伊那谷の石仏文化を形づくったといっても過言ではありません。
石切り場 写真提供:高遠町歴史博物館
矢と呼ばれる鏨【たがね】のような道具を打ち込んだ痕跡のある石 写真提供:高遠町歴史博物館
高遠石工の活動期
高遠石工の活動期は、主に内藤家が高遠藩を拝領した元禄4年(1691年)以降とされていますが、山梨県甲府市塩澤寺に安置されている正保5年(1648年)に建てられた無縫塔には、「大工信州之角兵衛」の銘が刻まれており、また、群馬県にも元禄時代以前の高遠石工の石造物が複数確認されていることから、江戸時代初頭より広域的な活動をしていたと考えられています。

明治になり養蚕業やその他産業が発達していくにつれ次第に廃れていきますが、高遠石工の石仏は、時を超えて美しさを増し、今も、温かな眼差しで私たちの暮らしを見守ってくれています。
故きを温ねて新しきを知る
高遠石工の石仏を訪ねる旅は、私たちに多くのことを教えてくれます。江戸時代の参勤交代に使われた街道沿いには、道標として置かれていたり、伊那谷に馬頭観音がたくさんあることも、多くの農耕馬や中馬が活躍していたことの証です。伊那谷に残る石仏は、そうした土地の記憶を現代に伝えているのです。

「温故知新――故きを温ねて新しきを知る」という言葉がありますが、歴史に思いを馳せてみることは、私たちに新たな気づきを与えてくれることでしょう。目まぐるしい日々の中に、ほんの少し、自分を見つめ直す時間を持つのも良いのではないでしょうか。

参考文献:「石仏師 守屋貞治」著作:高遠町誌編纂委員会、「高遠石工 石匠列伝 伊那谷に於ける高遠石工の実態を探る」田中清文著