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「稀代の名工」守屋貞治
高遠石工の中でも特に優れた腕を持ち、「稀代の名工」と謳われたのが、守屋貞治(もりやさだじ)です。貞治は、優れた石仏を数多く彫像したことから石仏師ともいわれました。生涯において350体にもおよぶ作品を残しました。
写真提供:伊那市
この作品は、伊那市高遠町の建福寺に安置されている名作「西国三十三所観世音菩薩」です。

ふっくらと滑らかな曲線、柔らかく弛む衣、優しげな表情―――まるで石とは思えないような彫刻がされています。機械のない時代に手作業で、しかも、一度削ってしまえば修正のきかない石材に、表情豊かに美しく繊細な彫刻が施されており、貞治の技術の高さをしっかりと物語っています。
守屋貞治の生涯
貞治は、明和2年(1765年)高遠藩藤沢郷塩供村(現、高遠町長藤)で、守屋孫兵衛の子として生まれました。藤沢郷は高遠藩領内でも多くの優れた石工を輩出した地域で、貞治の生家も代々石工の家系でした。そうした環境で育った貞治が、石工を志したのはごく自然なことだったのでしょう。
「石佛菩薩細工」「守屋貞治旅日記(表紙は後から作成)」所蔵 高遠町歴史博物館
貞治は亡くなる前年の天保2年(1831年)に、自身がこれまでに彫り上げた石仏を「石佛菩薩細工」(通称「貞治の細工帳」)に書き記しています。これによると貞治の活動は、現在の1都9県(東京都、神奈川県、群馬県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、三重県、兵庫県、山口県)に及んでおり、この広範囲にわたる活動こそが貞治の特徴といえます。細工帳に記された336体の石仏のほか、記載されていない石仏なども見つかっているため、貞治の作品は350体にもおよぶとされています。
「石佛菩薩細工」所蔵 高遠町歴史博物館
「石佛菩薩細工」「守屋貞治旅日記」の筆蹟や知識の内容から、少年時代は何処かで読書や習字、そろばんなどに勤しんだのではないかと想像されます。職人修業時代に誰のもとで技術を学んだかはわかっていませんが、造形や技法の面で祖父や父の影響が垣間見えます。
「守屋貞治旅日記(表紙は後から作成)」所蔵 高遠町歴史博物館
「石仏師」守屋貞治を育てた温泉寺 願王和尚の存在
貞治に大きな影響を与えたのが、温泉寺(現諏訪市)の住職・願王和尚です。若き貞治は、温泉寺で願王和尚に仕え、雲水として仏道修行に励んだと伝えられています。貞治の石仏が全国的に分布するのは、彼の石仏を礼賛した願王和尚が、全国各地の布教先で貞治を推薦したためとされています。

経典や儀軌(経典に説かれた仏、菩薩などの姿形をまとめたもの)に基づき、仏心を込めて丁寧に刻まれた貞治の石仏は、人々の心を捉え、高遠石工のブランドを確固たるものにしました。石仏を刻む際には、香を炊き経文を唱えながらひたすら彫像に打ち込んだとも伝えられており、貞治が単なる石工ではなく「石仏師」と呼ばれるのはこうした所以ゆえんからなのです。
建福寺本堂前 願王地蔵尊
深い人生の悲しみを背負って
貞治を仏の道へと導いたのには、度重なる家族との死別も影響したことでしょう。
彼が修業をはじめたころ、身近な肉親を相次いで亡くしたとされています。そのことが、彼にどんな心理的影響を与えたかは想像に難くありません。深い人生の悲しみを負った彼が石仏師へと歩む、大きな契機となったことでしょう。

晩年は目を患い手探りで石仏を彫り続けたといわれています。ほとんど盲目の状態で彫り上げたとされる絶作「聖観自在菩薩」は、駒ヶ根市の旧家小町谷家の庭でひっそりと佇んでいます。(拝観には許可が必要)

人々の心に寄り添い、石仏造立に情熱を捧げた貞治。石仏師としては類を見ない350体にもおよぶ作品を残し、天保3年(1832年)68歳のときに息をひきとりました。

貞治の石仏が、長い時を経てなお、私たちの心を捉えて離さないのは、彼の刻んだ石仏に、自身とその時代に生きた人々の人生そのものが映し出されているからかもしれません。
高遠町歴史博物館を訪ねて
高遠石工にまつわる貴重な資料を保管する、高遠町歴史博物館の学芸員 福澤浩之さんにお聞きしました。

「高遠は、山に囲まれた場所で、なおかつ城下町であった土地柄、山仕事に従事した職人や、刀や鉄砲を扱う鍛冶職人など、職人の多い地域でした。江戸時代の身分制度で百姓に分類され、石工として働いた人たちの中にも、もともとは職人だった人が多数いたことが『宗門人別改帳』などの記録からわかっています。

道具をよく見ると、柄の部分に使われている木の素材や形が道具の種類によって違い、簡単にへし折れない、しなりのある木が選ばれていることがわかります。また、石を割ったり細工をしたりする時には、複数の道具を使い分けていたことがわかります。

こうした道具を作る鍛冶の技術も、高遠石工は持ち合わせていたと考えられます。自分たちの技術や住む場所の利点を最大限生かすような取り組みが、江戸時代、すでに行われていたんですね」
守屋貞治の石工道具 所蔵 高遠町歴史博物館
さらに続けて、「守屋貞治が活躍した頃は、石工の技術としては一番高いレベルにまで到達していました。職人技は一日にしてならずというもので簡単に出来上がったものではなく、高遠石工たちが結構長い時間をかけて身につけてきた技術が、レベルアップしながら伝えられてブランドになるほどに磨かれていったのです。それだけの心意気がある人たちだったということですね」

福澤さんのお話に、高遠石工への興味関心がますます湧いてきます。
歴史の教科書だけではわからない新たな発見を探しに、高遠町歴史博物館にもぜひ訪れてみてください。



参考文献:「高遠石工の石仏巡礼ガイド」発行:一般社団法人高遠石工研究センター、「石仏師 守屋貞治」著作:高遠町誌編纂委員会、「高遠石工 石匠列伝 伊那谷に於ける高遠石工の実態を探る」田中清文著
◆高遠町歴史博物館
所在地:伊那市高遠町東高遠457
TEL:0265-94-4444
開館時間:午前9時から午後5時(最終入館時間 午後4時30分)

休館日:
月曜日・祝日の次の日(休日の場合は開館しています。)
12月28日から1月3日
展示替え・資料整理の日

駐車場:バス10台 普通車30台程度(観桜期のみ有料となります)