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全国に広がる高遠石工
高遠藩による他国への出稼ぎ奨励により、全国各地に出向き活躍した高遠石工。その足跡は全国18都府県にも及んでいます。
高遠石工が携わった、各地の石造物をご紹介します。
高遠石工の足跡 全国18都府県
江戸城
江戸城の石垣
高遠石工が県外で携わった工事のひとつに、江戸城の石垣があるとされています。この石垣工事は、慶長11年(1606年)に始まり徳川家康・秀忠・家光が三代にわたって、主に西国の諸大名に命じて築き上げたものです。慶長16年(1611年)からは東国大名に命じて西丸堀普請を行いました。

「新編武蔵風土記稿」には、旧伊奈村(現東京都あきる野市)の記述に、「村名の起るところを尋ぬるに、往古信濃国伊奈郡より石工多く移り住んで、専ら業を広くせし故に村名となせり。天正十八年御入国の後、江戸城石垣等の御用をつとむと伝へり」とあり、天正末期(1590年代)に、高遠領内の石工が徳川家康の命により江戸城の工事に従事し、集団で移住して一部落を作ったとされています。

また、「千代田区誌上巻」には、慶長16年に高遠藩の保科正光が西丸堀普請を担当したことが記されています。
お台場品川蒲砲台
お台場品川蒲砲台
嘉永6年(1853年)の黒船来航に脅威を覚えた幕府は、その来航に備えて、品川沖に六基の砲台をつくりました。
古文書、藤沢片倉村の「石切目付手控帳」には、品川浦御台場普請に高遠藤沢から100人の石工が出動したことが記されています。
現在は、第三砲台と第六砲台の二基が残っています。
甲州 津金山海岸寺 百体観音
津金山海岸寺 百体観音(山梨県北杜市須玉町上津金)写真:Hana / PIXTA(ピクスタ)
養老元年(717年)、行基菩薩が庵をかまえたことがはじまりといわれる海岸寺。境内には、名工守屋貞治と弟子の渋谷藤兵衛を中心とした石工たちが、十数年の歳月をかけて彫った100体以上の石仏が立ち並びます。これは、海岸寺桃渓和尚が、貞治の師である願王和尚と親交があったため、貞治を使命し作らせたものとされています。

日本では、西国三十三所観音、坂東三十三所観世音、秩父三十四番観世音を合わせて「日本百観音」といい、100体の観音像を巡ることで、西国・坂東・秩父の百霊場を巡ったのと同じ功徳があると言われています。一生のうちにこれらの霊場を巡礼したいと思っても、交通不便な時代には容易なことではなく、身近な場所に拠りどころを求めた地元の人々の厚い信仰心が感じられます。
群馬県に残る石造物
写真提供:高遠石工研究センター 熊谷友幸氏
群馬県は、全県にわたって高遠石工の石造物が数多く残っています。高遠石工研究センターのこれまでの調べでは、銘が入ったものだけで800基を上回ります。中でも、前橋市や高崎市は数が多く、灯籠や石祠(せきし)、宝篋印塔などの石造物がいたるところに安置されています。写真は、高崎市の小さな神社に残る石祠で、群馬県で名工として人気が高かった高遠町藤沢御堂垣外の石工、保科増右衛門の作です。
しっかりと銘が刻まれている 写真提供:高遠石工研究センター 熊谷友幸氏
全国に広がる作品が、当時の高遠石工の活躍ぶりを教えてくれます。
あなたの身近にも、高遠石工の足跡が残っているかもしれません。ぜひ探してみてください。そこをスタート地点に、高遠石工のルーツを訪ねる伊那谷旅へ出かけてみてはいかがでしょうか。

参考文献:「高遠石工の石仏巡礼ガイド」発行:一般社団法人高遠石工研究センター、「石仏師 守屋貞治」著作:高遠町誌編纂委員会